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不完全さを認める勇気──アドラー心理学から学ぶ自己受容と劣等感の克服

完璧じゃない自分を責めてしまう。

「どうして私はこんなにダメなんだろう」と落ち込んだことはありませんか?

アドラー心理学には「不完全さを認める勇気を持つ」という有名な言葉があります。

私は初めてこの言葉を知ったとき、「なるほど、自分の欠点をそのまま受け入れることが大事なのだ」と頷き、感心しました。そして、実践していこうと決めたのです。

けれども、当時の私は「不完全さを受け入れる」ことを誤解していました。

「自分はダメだ」とまず否定から入り、「だからもっと努力しなければ」と自分に鞭を打つ。表面上は「自己受容」のつもりでも、実際には「劣等感」に押しつぶされる日々を送っていたのです。

結果として、「不完全さを認める勇気」を持とうとすればするほど、苦しさが増し、前に進む力を失っていきました。

自分を苦しめていたのは、自分の見方だった

私は「不完全さを認める」ことを、長い間「自分には欠点があると受け止めること」だと理解していました。

短所や欠点をどうしようもないものと見なして背負い込み、それを克服する努力を続けることが正しいのだと信じていたのです。

しかし、よく考えれば「ダメ」「良い」という評価は、単なる捉え方にすぎません。

自分にとってマイナスに見える部分も、他者から見ればプラスに働くことがあります。

たとえば、私は落ち込みやすい性格を「弱点」と考えていました。

けれども、それは「理想を高く持つ心」の裏返しでもあり、「人の気持ちに敏感で寄り添える」という長所でもあったのです。

つまり、自分を苦しめていたのは「事実」ではなく、自分自身の「見方」でした。

心の扉を開いてくれた二つの言葉

そんな私に気づきを与えてくれたのは、あるお酒の席で出会った二つの言葉でした。

自分が頑張っているけど、理想の自分に近づけている気がしない、といった私の話を丁寧に聞いてくれたあと、優しく口調で私に伝えてくれた言葉であり、そんなやり取りを見ていた別の人が、私の心の中にある「自己否定」を解こうとしてくれた気持ちが伝わる、心に響く言葉でした。それは、次の二つの言葉です。

「絶対値で物事を見る」

「自分が大切にしてきたことを手放さなくてもよい」

この二つの言葉は、私の中で凝り固まっていた「不完全さ」の意味を大きく変えてくれました。

絶対値で物事を見る

数学でいう「絶対値」は、「-5」も「+5」も、符号は違っても「0から5離れている」という点で同じです。

人生の経験も同じで、成功や失敗に「プラス」「マイナス」とラベルをつける必要はありません。

これまで私は失敗を「劣等感」の証と考え、自己否定につなげていました。

しかし、「絶対値」という考え方に触れたとき、「どんな経験も成長の一部なのだ」と理解できるようになったのです。

失敗も後悔も「-」ではなく「経験値」として積み重なっていく。そう思えたとき、私はようやく心の荷物を少し降ろせました。

そして、その経験値は自分にしかない経験でもあるのです。自分の経験に、「+」や「-」をつけることなく、自分が積み重ねてきた経験値だと考えると、その経験は、唯一無二の経験であることに気づきます。

大切にしてきたことを手放さなくてもいい

もうひとつの言葉は、「自分が大切にしてきたことを手放さなくてもいい」というものでした。

人は行き詰まった状況にある場合や、他人に間違っていると非難されたとき、「これまでの努力は間違いだったのではないか」と自分を責めてしまうことがあります。

私もそうでした。自分は間違っていた、と積み上げてきたものを否定してしまうと、劣等感や自己否定が強まり「何も意味がなかった」「無駄な時間を過ごしてしまった」と感じてしまうのです。

けれども、「手放さなくてもいい」という言葉は、過去の経験を「失敗」として切り捨てるのではなく、「これからの力に変えられる」と私に気づかせてくれました。その経験を活かした第三の道が拓かれる可能性だってあります。

大切にしてきたものは無駄ではなく、新しい道を歩むための材料になる。そう理解した瞬間、自己受容の感覚が少しずつ芽生えてきたのです。

アドラー心理学における「不完全さを受け入れる」とは?

アドラー心理学で語られる「不完全さを認める勇気」は、単なる自己否定ではありません。私の最初の理解の仕方が、私の捉え方であって、むしろ、以下のような前向きな意味合いがあります。

人は本来、不完全な存在である
完全になることはなく、だからこそ「成長し続ける可能性」がある。

劣等感を否定しない
劣等感は悪いものではなく、むしろ「前に進もうとする原動力」として大切にすべきもの。

比較ではなく「自分の課題」に集中する
他人と比べて劣っているか優れているかではなく、「自分が今どうありたいか」に意識を向ける。

共同体感覚につながる
自分の不完全さを受け入れられる人は、他人の不完全さにも寛容になれる。その結果、人とのつながりや信頼が深まる。

不完全さは未来の道しるべ

私は今、不完全さを「欠点」ではなく「未来を切り拓く材料」として見られるようになりました。

むしろ、不完全とさえ思っていなくて、単なる過程の経験と捉えられるようになったのかもしれません。

完全な人などいないでしょうし、誰もが悩みや劣等感を抱えています。

だからこそ、不完全な状態で人は他者に寄り添い、学び合い、共に成長できるのだと思います。

私自身も、不完全さを受け入れたことで、人とのつながりや安心感が増えていきました。

アドラー心理学にある「不完全さを認める勇気」とは、自己否定ではなく自己受容です。

過去を無駄だと切り捨てることでもなく、劣等感に押しつぶされることでもありません。

それは、経験をただ経験として受け止め、未来の糧に変えていく勇気。

そして、不完全な自分を受け入れることで、人にやさしくなれる力だと思います。

すべての経験は、きっとよくなるために必要なもの。

もしかしたら、本当は勇気さえも必要なく、ただ「まだ途中だよな」「ここまで進んできたんだよな」と軽く受け止めるくらいでいいのかもしれません。

だから今日も、不完全なままの自分で一歩を踏み出していけばいいのです。そんなことができる自分は、素晴らしい存在なのです。

あなたは、自分の不完全さをどう見ていますか?

その答えが、あなたの在りたい状態への過程であると気づけたとき、これからのあなたの歩みに光を与えてくれるはずです。

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