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この世界で自分を生きる|第2章 わたしとは何者か

「あなたは誰ですか?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか。

名前や職業、家族構成、趣味、性格…きっと、それらの組み合わせで「わたし」を説明しようとするかもしれません。

でも、そのすべてがもし、ある日突然失われたら?
あなたの“わたし”は、どこに残るのでしょうか。

「わたし」の正体を見つける問い

日常の中で私たちは、「わたし」という存在を当然のように感じています。
朝起きて、「今日も私は私だ」と、特に疑うこともなく生活を始めます。

でも、ふとした瞬間に感じることがあります。
「本当の自分って、どこにいるんだろう?」と。

たとえば、周囲に合わせて無理に笑っているとき。
「本当は、こういうの好きじゃないんだけどな」と思いながら、空気を読んで頷いてしまうとき。
あるいは、家では自然体なのに、会社では全然違う自分を演じていると気づいたとき。

私たちは日々、多くの“役割”を演じて生きています。
けれどそのどれもが、「仮面」のように感じてしまうとき、私たちは「本当のわたしはどこにいるのか?」という問いに突き当たります。

わたし=「記憶」ではない

「わたしとは、過去の積み重ねだ」と考える人もいます。

たしかに、子どものころの体験、学校での成功や失敗、家族との関係――それらの記憶は、私たちの考え方や価値観を形づくっています。

でも記憶は、常に“正確”ではありません。

たとえば、兄弟姉妹でまったく同じ場面を思い出しても、「そんなことなかったよ」と意見が食い違うことがあります。人は、自分の感情や都合によって記憶を書き換えているのです。

つまり、「記憶」もまた、固定された“わたし”の証拠にはなりません。

「わたし」は意識が見ている“今”に宿る

私たちはつい、「わたしとは〇〇である」と定義しようとします。

けれど、「わたし」は変化し続けていて、記憶も感情も、絶えず揺れ動いています。
では、その奥にある“変わらないわたし”とは、何なのでしょうか。

それは、“今”を見つめている「意識」そのものなのではないかと、私は感じています。

怒っている“自分”を、どこかで冷静に見ている“わたし”。
涙を流している“自分”を、「泣いてるな」と感じている“わたし”。

それは、思考や感情とは少し距離を置いた、静かな存在。
そこには、過去も未来もなく、ただ「今、ここ」にある“気づき”があります。

思考に巻き込まれず、“観る意識”に立つ

日常の中で、私たちはほとんど「思考」によって生きています。

・あの人にどう思われたか
・もし失敗したらどうしよう
・昔あんなことを言われて傷ついた

これらはすべて、頭の中の「思考」が生み出す“物語”です。
思考は便利なツールですが、気づかぬうちにそれに巻き込まれると、苦しさや不安に支配されてしまいます。

大切なのは、思考に巻き込まれず、それを「観る意識」に立ち返ること。
それが、本当の“わたし”との再会なのかもしれません。

日常のなかで「わたし」を見つける

意識に触れる瞬間は、特別な修行や瞑想をしなくても、日常の中にあります。

・歩きながら風の心地よさに気づくとき
・コーヒーの香りを深く味わっているとき
・ただ空を見上げているとき

そうした「いま、ここ」に意識があるとき、私たちは“自分の中心”に戻っています。
その感覚が、「わたしって、ここにいたんだ」と気づかせてくれるのです。

「わたし」を生き始める

“わたし”は、誰かに定義されるものではなく、
思考や過去の出来事でもなく、
「いま、ここ」に立ち返ることで出会えるもの。

では、そんな“わたし”として、日々をどう生きていくのか。
次章では、心の声とつながり、本当の自分の選択を生きることについて、お話していきます。

思考に飲まれる毎日から、一歩引いて見つめてみませんか?
1分のショート動画で“本当のわたし”に近づく体験を。
▶︎【動画はこちら】→ [この世界で自分を生きる|物質世界で生きるということ]

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