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人はそれぞれ正義があって

誰かに対して怒りをぶつけたい感情になることもある。「おかしい」とか「常識がない」といって相手の非をあげつらい、自分の『正義』の正当性を主張する。人はそうやって、自分が正しく相手が間違っていると考えがちである。

私は、子供を叱るとき、自分はふと『価値観を押し付けていやしないか』と自問自答する。世の中にでて、彼らが生きていくために必要なことだと考える。『ちゃんとした大人になってほしいから、あなたのために叱っているのだ』というのが親の理屈だ。

人はそれぞれ「正義」があって、争いあうのは仕方ないのかもしれない。だけど僕が嫌いな「彼」も彼なりの理由があるとおもうんだ。

SEKAI NO OWARI『Dragon Night』

確かに親としての自分は、人生の様々な失敗や叱られたことで気づきがあったことも事実である。そして、そんな気づきを子供にわからせたい、と思うのも無理はない。でもね、自分は本当に立派な大人であると、心の底から自信をもって宣言することはできない。子供が全く自分と同じような人間に育ったら、幸せになるのかと確信をもってはいない。

大人同士での関係でもそうだ。ビジネスにおいてでも、友人関係においてでも、家族の間においてでも、自分は『自分の正義』を盾にして相手を非難する。でも、その『正義』というやらも、自分の立場において、自分が知っている情報の範囲において『正義』なだけで、絶対に普遍的な正義とは限らない。

自分の価値観にそぐわない人に対しては『変わった人』とみなして、相手を非難することで、自分の『正義』は保たれているのかもしれない。

立場関われば、見える世界は違う。自分が知らない相手の事情もある。そんな自分の世界を基準にして、人は人と対立していることは多いと思う。対立まではいかなくても、腹を立てることがある。

人は自分の意識したことしか情報が入ってこないそうである。一人一人が意識しているものが異なるから、同じ世界に生きているようでも、同じ世界には生きていないそうだ。

例えば、ある夫婦が一緒に街の中を歩いている。その時、妻が『あそこのケーキ屋さん、おいしそうなケーキが並んであるね」と夫に声をかけても、夫は『ケーキ屋さんなんてあった?』と存在にさえ気づいていないこともある。『ケーキ屋さん』は、妻にはあったが、夫にはなかったのである。

自分が今までの人生において、自分の意識することを基準に得てきた情報をもとに、自分の価値観というものは形成されている。しかし、この価値観は絶対普遍のものではないことも事実である。それぞれに価値観が異なるから、人と人の間に摩擦が生じることは当たり前のことである。

だからこそ『相手を理解する』という姿勢がまず大切なのである。相手の言動には相手の考えがある、その考えを理解していき、自分の考えを述べ、相互の理解を深めていくことができることが理想である。

その前提が相手への尊重の念なのだろう。子供を叱るときでもそうだ。『なぜ、こんなことをしたのか』という背景を理解してあげることがまずは重要だ。そして自分の考えを話してみて、子供が考え自分で答えを導き出して、その答えを尊重する。時には、その答えへの疑問点を投げかけることで、より思考が深まるかもしれない。

子供と接するとき親は絶対的に正しい、と思わないように心掛けている。むしろ、子供の方が自分に素直に生きており、本来の人間の在り方なのかもしれないなと思うことも多い。ルールやマナーなどを教えることもあるだろう。そんな時にルールだからと強制してしまいがちな自分もいる。それでも教えなければいけないと思う気持ちがあるのも事実である。子育てと言いながら、自分が子供に育てられているなと思うことも多い。そして、同時に今の子供と接することができるのは、今しかない。だからこそ、自分も人として多くのことを学べる時間を過ごしていることに感謝して、大切に過ごしていきたいものである。

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