人との関係は煩(わずら)わしい
人間関係というものは、実に煩わしいと感じることも多いです。でも、幸せな気持ちになるのも人間関係があってのことでもあるので、人間関係は煩わしいだけでなく、幸福を導くものであることも事実です。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、『人間は社会的動物』だと語りました。
人間というのは、自己の自然本性の完成をめざして努力しつつ、ポリス的共同体(つまり《善く生きること》を目指す人同士の共同体)をつくることで完成に至る、という(他の動物にはみられない)独特の自然本性を有する動物であると述べた。
Wikipediaより
人は他の人たちと関わってなければ生きていくことはできません。身近なところでは、家族や職場、学校などといった身近な集団もそうですし、市町村に都道府県、そして国や世界との繋がりがあって生きています。そうした共同体の中で、互いに支えあい協力して生きています。
だからこそ、人との関りに煩わしさや、時には苦痛を感じるのかもしれません。共同体の中で生きていくからこそ、人との関りが必要であるのはわかっているが、どうしても人の態度やふるまい、言動に心をかき乱されてしまう。ならば関りを持たずに生きていたいと思うけど、共同体の中でいる限り、どうしても何かの理由で関わらなければいけないこともあります。

相互理解が必要だとはわかるけれども
家族や学校、職場という集団においては、関わることの度合いが多いので、人間関係に悩まされることも多いです。今の私は、経営者という立場において、社員との関係に悩まされることもあります。若かりし頃は、反対の立場で上司や社長との関係で上手くいかないと感じたこともありますし、同僚や友人関係においても思う通りにいかないと感じることも多くありました。
そんな時は、自分はこうしているのに相手はわかってくれない、という具合に相手に対して批判めいた考え方にもなります。本当は相互理解が必要なのかもしれないけど、どうしても自己中心的な考え方になりがちです。悪意を持って人に接しているのならば、そんな悩みなんて生まれませんが、おそらく善意をもって接しているからこそ、相手の態度に腹を立てたり、悩んだりしてしまうのだと思います。相手のことを思っての言動なのにという気持ちがあると、どうしても相手を理解することができません。
相手との考えが異なったりしたときに、テレビ番組や有名インフルエンサーの影響でしょうか『論破』という言葉が流行りました。相手を言い負かすことで、自分の主張の正しさを示す方法ですが、私は『論破』して相手を説き伏せるということは好みません。これは、単に言い負かしたことに過ぎず、本当の意味での相互理解にはつながらないと考えるからです。

変えられるのは自分だけ
健全な人は、相手を変えようとせず自分が変わる。不健全な人は、相手を操作し、変えようとする。
アルフレッド・アドラー『人生に革命が起きる100の言葉』
『人は変えることができない、変えられるのは自分だけ』人間関係に悩んだとき、心理学者のアドラーのこうした言葉を思い出し、意識を向けるように心掛けています。とはいえ、なかなか思うようにできないことも多いのが本音です。頭でわかっても感情は収まらないといった状態になることもしばしばです。自分じゃなく、相手が悪いと思うのが人間の性なのかなとも思ってしまいます。
ただ、確かに他人を変えようとするのは難しいです。怒りや威圧的な態度で相手の行動を変えようとすることもありますが、私はそうしたことが苦手です。子供に対して、そうした態度を取ることもあります。でも、あまり気分は良くありません。また、こうした取り方は立場の上下という関係性もあります。組織を作り上げていくという過程においては、いわゆる鉄拳制裁的な方法もあるのでしょうが、人間関係の悩みを解消することにおいては、適切とは思えません。ならば、自分が変わろうということに意識を向けることは大切なことだと思います。
刻石流水(こくせきりゅうすい)

『懸情流水 受恩刻石(けんじょうりゅうすい じゅおんこくせき)』という言葉を知人から教えてもらいました。『懸けた情は水に流し、受けた恩は石に刻むように覚えておく』という意味で『刻石流水』とも言います。元は仏教の経典にある言葉とのことですが、日ごろの自分の思考と照らし合わせると、ハッとする言葉でもありました。
自分はあなたに良かれと思った行動をしているのに、あなたはわかっていない、と思うことはあります。『情けを仇で返された』と思うこともあります。でも、『刻石流水』という言葉を考えた時、自分は受けた恩に対して意識をもって大切にしてきたのだろうかと自問してみると、やってもらって当たり前と捉えていたことや、気づかないでいたこと、ついつい忘れてしまっていること、棚に上げてしまっていることがあることに気づきます。
共同体の中で生きている限り、私も様々な恩を受けて生きてきたと思います。自分は受けてきた恩を忘れて、相手に対して『恩知らず』と思うのはカッコ悪いなと思うのが正直な気持ちです。ならば、まずは自分が『懸情流水 受恩刻石』の気持ちで日々を過ごすことで自分を変えていければと思います。
もしもこうした考えをもって日々過ごす人が増えたとき、私たちが関わる共同体の中で生きることって幸福に満ち溢れているのではないかなとも思います。とはいえ、他人にこうした考えを理解するようにと変えようとするのではありませんが、まずは自分が受けた恩を大切にすることを心掛けていき、自分を変えていこうと思います。その結果として、自然とこうした考えに共感する人たちとの関りが広がれば良いなとも思います。期待しすぎることなくですが。
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