「自立」と「自律」への願い
「自立してほしい」
「自分でありたい姿を描いて、その道に進もうとする“自律”の力を身につけてほしい」
これは、父親としてのぼくの一番の願いかもしれない。
息子が成長する姿を見ながら、ただ何かができるようになること以上に、「自分で考え、自分で選ぶ力」を持ってほしいと願っている。
息子の「良さ」を見つめながら
もちろん、息子にはたくさんの“いいところ”がある。
たとえば、好きなことに打ち込むときの集中力は本当にすごい。
「楽しい」と感じると、とことん頑張れるところ。これは彼の才能だと思う。
それから、人の悪口を言わないところ。
周りの人のことを批判せず、冷静に関係性を保っている姿勢には、大人のぼくも学ばされる。
さらに、アイデアを出すのが得意で、思いもよらない発想をしてくることもある。
常識にとらわれず、彼なりの“世界”を描ける才能もあると感じている。
そんな息子の良さを見つけられて、その素晴らしさを見つめていきたいと思う。
それでも日常には、イライラすることも
でも、現実の毎日は、理想通りにはいかない。
だらしなさ、言ったことをやらない、目的意識の希薄さ…。
イライラすることがないわけじゃない。
朝起きない、宿題を後回しにする、忘れ物も多い。
妻が叱っている姿を見ると、「言いすぎだよな…」と思いつつも、できていないことが目についてしまう。
そんな自分の矛盾にも、正直なところ、モヤモヤしてしまう。

反抗期という「通過点」
息子が中学2年の夏になると、学校の部活動が廃止され、地域活動に移行する予定である。
息子はそうなった時に「野球のクラブチームに入りたい」と話した。
でも、妻の反応が冷たく、息子は「結局、野球ができるようになるって“環境”なんだな」と反抗的に言ったらしい。
その言葉を聞いて、少し腹が立った。
「環境のせいにするなよ。自分の環境は、自分で整えようとするところから始めるべきだろ」
そんな言葉を思わず口にして、彼を叱責してしまった。
でも…ふと気づいた。
そう言いたくなるのは、ぼく自身が“他責”の姿勢に敏感だからだ。
親の「期待」との向き合い方
思春期の子どもには、反抗期があって当然。
むしろ、それは健全な成長のプロセスだ。
反抗の中から、自分という存在を確かめていく。
その過程を、できるだけ見守ってあげたいと思う。
ただし、それは放任とは違う。
関わりすぎず、離れすぎず、必要なときに本音を語れる関係をつくっていきたい。
叱るとき、ふと「これは親の期待を押しつけているだけかもしれない」と思う瞬間がある。
「~であってほしい」という願いが、時に子どもを縛ってしまうこともあるのだ。
がっかりではなく、驚かされよう
「成績の良い学校に行ってほしい」
そんな気持ちが心の奥にあることを、自分でもわかっている。
でも、それは結局、ぼくの価値観や人生観の中での話だ。
彼には彼の人生があり、価値観があり、選び取る未来がある。
最近、「がっかりする」という思考そのものが、
自分の枠の中に息子を収めようとすることなのだと気づいた。
それは、ぼく自身の人生であって、彼の人生ではない。
期待通りにいかなくても、むしろ驚かせてほしい。
へぇ、そうなんだ、と新しい世界を教えてくれる存在として、彼を見ていたい。
自分が知らなかった景色を、息子が見せてくれる。
そのことに感動できる自分でありたい。
「それで、どうなるの?」「どうしてそう考えたの?」と、
彼の姿勢を全面的に肯定した僕の心の状態で、
(彼に言葉にする、しないは別にして、)そう問いかけながら、
彼の成長を、まるで冒険物語の続きを読むように楽しめたらと思う。
正直、そんなふうにいつも穏やかでいられるかどうかはわからない。
でも、そうありたいと思うこと自体が、親としてのぼくの挑戦でもある。
そして、必要なときにはそっと力になれるように。
彼が自分の足で歩くその道の、風よけになれるときにはなってあげたい。
自分がそんな存在でいられたらいいと願っている。

どんなときも「信じる」こと
信じる、というのは、
「こうなってほしい」と願うことではなく、
「どうなっても大丈夫」と肯定し続けることだと思う。
たとえ、思い通りにいかなくても。
たとえ、道に迷ったとしても。
ぼくは、息子を信じたい。
彼が自分の人生を、自分の力で切り拓いていけることを、信じていたい。
それは、親としてどうしても手放せない想いなのだ。
なぜなら、彼は、何があっても愛情を注ぎたい、大切な存在だから。
子育てに正解はない。
迷いながら、葛藤しながら、それでも親は子を思い続ける。
それが「育てる」ということなのかもしれない。
彼は彼が描いた人生をしっかりと歩んでいけるのだと信じ続ける。
それが、ぼくなりの“父としての姿勢”であろう。
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