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「群盲象を評す」が教えてくれる正しさの相対性と俯瞰する視点

インドに古くから伝わる寓話「群盲象を評す」をご存じでしょうか。

数人の盲目の人たちが、象を一度も見たことがないまま、それぞれの手で象に触れました。
耳に触れた人は「象は大きな団扇のようだ」と言い、鼻に触れた人は「象は太い蛇だ」と答え、足を触った人は「象は柱のようだ」と表現しました。
彼らは皆、自分が触れた感触を「真実」だと信じています。しかし、その真実は全体のほんの一部でしかありません。

この寓話は、私たちの日常や社会のあり方と驚くほど似ています。
それぞれが自分の経験や価値観を基準に「これが正しい」と信じていますが、その正しさは全体から見れば部分的なもの。

老子は「知者は言わず、言者は知らず」と述べています。
本当に知っている者は断定的に語らず、断定的に語る者は本質を知らないというものです。

アインシュタインも常識や固定観念の危うさを指摘しました。
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションにすぎない」
私たちが当たり前と信じていることも、狭い経験の中で形づくられた偏見であるかもしれません。

「正しさの相対性」という視点

「正しさの相対性」という視点正しさは、絶対的な一つの答えではなく、立場や価値観、状況によって変わります。
経営者の正しさと社員の正しさ、親の正しさと子どもの正しさ──それぞれが本人にとっては真実であっても、互いに食い違うことがあります。

また、文化や時代が変われば、かつての正しさが今では通用しないこともあります。
だからこそ、自分の正しさは全体の一部であるという前提を持つことが、他者を理解する第一歩になるのです。

2025年の日本における参議院選挙でも、それぞれの立場から正しさを主張する一方で、相手の正しさを批判する場面が目立ちました。参政党の躍進は、それに比例するように批判する声も増えていきました。
結果として、自分と価値観が違う人を排除しようとする動きとして、選挙演説を妨害する抗議行動が目立ちました。
なかには、相手を否定・非難するあまり、日本国旗にバツ印をつけて抗議する姿もありましたが、これなどは、自分の正しさを主張するがあまり、行き過ぎた行為のように思えてなりません。
自分の正義を過度に振りかざすことで、多くの人を傷つけることもあるのですが、残念ながら、自分の正義を振りかざしている人は、そんなことに気づきもしないでしょう。

「受け入れること」と「賛同は違う」という思考で相手を認める


スティーブン・R・コヴィーは著書『7つの習慣』の中でこう語っています。
「相手を説得する前に、まず理解しなさい」
これは単なる会話術ではなく、相手の立場や背景を理解する姿勢を持つことの重要性を示しています。

受け入れることは賛同することとは違います。
「なるほど、そう考える人もいるのだな」と思えれば、それだけで視野は広がります。
異なる意見に耳を傾けることは、自分の正しさを否定することではありません。
むしろ、相手の正しさを理解することで、自分の思考が輪郭を持ち、全体像を俯瞰できるようになります。
盲目の象の話で言えば、耳に触れた人と鼻に触れた人が、お互いの体験を尊重し合えば、象の全体像に一歩近づけます。


俯瞰するとは、こうした多様な視点を持ち寄り、組み合わせて世界を見ることです。
共感できる部分もあれば、共感できない部分もあるでしょう。
それでも、違う視点があるからこそ自分の考えが浮かび上がる。
他者がいるから自分が存在し、自分が存在するから他者も存在するのです。


私たちは日々、自分というレンズを通して世界を見ています。
そのレンズは磨き続けなければ、曇ったまま偏った景色しか映しません。
他者の視点に耳を傾けることは、そのレンズを磨く作業です。
正しさはひとつではなく、それぞれが部分的な真実を持っている——
この前提を持てたとき、見える世界は一気に広がります。

象の全体像を知ることはできなくても、お互いの見ている世界を重ね合わせることで、より豊かな輪郭が浮かび上がるのではないでしょうか。
混沌としたこの時代、俯瞰する視点を持ち合わせて、生きていきたいものだと思います。

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