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真田昌幸・幸村父子が雌伏の時を過ごした九度山を散策

好きな歴史上の人物として常に名前が挙がってくる真田幸村。かくゆう私も子供の頃の歴史漫画に始まり、大坂の陣における真田幸村の活躍に心惹かれていました。いつかは訪れてみたいと思っていた九度山の地。散策の途中で見かける山々の景色。昌幸・幸村も眺めていたのではないか、と考えると何か心躍る気持ちにもなってしまいます。

目次

道の駅 柿の郷くどやまが出発地点

今回は、車で九度山に訪れました。真田ミュージアムや真田庵といった、今回訪問したい場所には駐車場がないため、ここ道の駅に車を停め、散策をスタートします。

こいのぼりの季節でもあったので、散策をはじめたすぐにある、丹生橋から『こいのぼりの丹生川渡し』が見えます。

真田ミュージアム

民家の間の狭い道を進むこと約5分で真田ミュージアムに到着です。

真田昌幸・幸村・大助の甲冑像が出迎えてくれています。幸村と大助の『赤備え』の姿からも真田の武勇が伝わってきます。

館内は、武田家に仕えていた真田氏の歴史から、第二次上田合戦に至る経緯や関ケ原後の状況、そして九度山での蟄居生活の様子、そして大阪の陣での活躍などを、様々な書簡と共に解説してくれています。この歴史の流れは何度となく見聞きしてきましたが、徳川という巨大な勢力に抗い、知略と武勇を尽くして戦果を挙げる真田父子の活躍に心躍ります。『日本一の兵(ひのもといちのつわもの)』と称えられた真田幸村の活躍は400年以上の時が流れても、多くの人の心を震わせる生き様であると思います。

真田庵(善名称院)

真田ミュージアムを離れて数分で、幸村たちが蟄居していたといわれる草庵跡にたてられたという善名称院(通称真田庵)にたどり着きました。境内には昌幸が真田地主大権現として祀られている。この地で、蟄居生活のまま生涯を閉じた真田昌幸の想いを考えてみると、戦国の世の中を生き抜いた知恵や知略を発揮できなかった晩年は、無念の気持ちも大きかったのではないだろうか。しかし大坂の陣での息子の活躍が、父の名を更に高める結果ともなったとも思う。

米金の金時像

真田庵を出て、ちょっとおまけに寄ったのが、米金の金時像。

大正初期に南紀荘平という陶芸家による九度山焼の陶像です。なんとも愛らしい表情とポーズは、ほっこりとした気分にさせてくれました。

真田三代への想い

長年の願いが叶って訪れることができた九度山。関ヶ原の戦い後、長きにわたって過ごしたこの地で真田昌幸、幸村親子は、時に挫けそうな想いにもなったのではないでしょうか。お金の無心や弱気になった心境を吐露するような手紙も残っており、私は徳川家への復讐の想いを持ち続けた日々ばかりではなかったのではないか、とも思っていました。

しかし、九度山を訪れ、わずかばかりの時間ですが昌幸・幸村が過ごしたであろう土地を散策したとき、真田家の誇りは常に持ち続けていたのではないだろうか、という気持ちになりました。その想いがあったからこそ、大坂の陣において真田幸村は最後の大輪の花を咲かすことができたのではないでしょうか。特に、10代(13歳から16歳という説)の若さで命を落とした幸村の息子、真田大助の行動は、おそらく祖父や父からの教えがあったからこそだとも思います。

『人生をいかに生きたか』、という姿を見せた真田三代の生き様は、これからも人々の心を魅了し続けるのではないでしょうか。

注)歴史的には、真田幸村は真田信繁、真田大助は真田幸昌と記述するのが正しいのですが、子供のころから慣れ親しんだ幸村・大助という名の方が、私の心がワクワクするものでもありましたので、今回は幸村・大助で書かせていただきました。

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