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石田三成陣跡から俯瞰する関ヶ原古戦場での想い

『天下分け目』と称される『関ヶ原古戦場』を訪れました。私は、小学2年生の頃に図書館で、歴史偉人伝をよく読んでいたのですが、その中でも、農民から天下人へと上り詰めた豊臣秀吉の知恵にあふれた活躍を描いた成功物語を読み進め、子どもながらにワクワクする気持ちが膨らんでいたことを思い出します。そこから関ヶ原の戦いは、私にとって歴史探求のテーマになっていたかもしれません。

秀吉贔屓だった私は、『どうやったら関ヶ原の戦いや大坂の陣で豊臣方が勝利することができたのか』と考えることが多かったです。そんな私にとって、関ヶ原の戦いでは、なぜ秀吉恩顧の福島正則や黒田長政といった豊臣方であるべき武将たちが徳川方につき、豊臣方を攻めるのかという疑問が常に頭にありました。

石田三成の陣跡から手元にある布陣図を参考に関ヶ原古戦場を眺めると、石田三成率いる西軍は、徳川家康率いる東軍を包囲した布陣となっているのがわかります。明治の時代に、日本に兵学教官として赴任していたドイツ帝国の軍人であるクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルは、関ヶ原の布陣を見て、西軍が勝利したと述べた話があります。この話の真偽は定かではありません。しかし、西軍が有利に戦を進める可能性が高い布陣であったことは確かです。

関ヶ原の合戦は、小早川秀秋をはじめとし、続く、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保などの裏切りにより、西軍が総崩れになったことは事実ですが、徳川軍の背後に陣取った毛利軍や長宗我部軍などが、吉川広家の裏切り行為により、布陣はしていたものの参戦できなかったことも西軍の敗戦に繋がりました。結局のところ、戦場における『武』の戦いではなく、調略という『はかりごと』が雌雄を決することの決め手になったわけです。

豊臣恩顧の武将で東軍に就いた者たちは、豊臣秀頼が秀吉の本当の子ではない可能性が高いことも、西軍に与しなかった理由なのかなとも個人的には思います。この辺りは、北の政所と淀殿との関係性も影響があったりするのかな、とも考えられます。また、徳川家康も関ヶ原の合戦へと繋がる『会津征伐』は豊臣政権としての行軍でもあったので、関ヶ原の戦いは『豊臣VS徳川』ではないという考えもあるようですが、結果としては明らかに『豊臣VS徳川』であり、福島正則や黒田長政もそうなることはわかっていての行動なのだろうと思う。

いずれにせよ、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことにより、太平の世となる江戸時代へと繋がったのだ。日本が再び戦国の世に逆戻りをしたらならば、当時の東南アジアの情勢からして、日本がスペインやポルトガルの植民地となった可能性だってあったのだから、関ヶ原の戦いの結果は、次代にとっては良かったことなのかもしれない。石田三成の陣跡に立ち、そんなことを考えながら笹尾山へと配送する三成の姿を想像した。無念いっぱいであっただろう。でも、後生において彼のとった行動は忠義の士として敬意を払う人も多い。自身の宿命を生ききったのかも知れないな、と天高く広がる秋空を見上げながら、同時に今を生きている自分を強く感じた。自分も自身の志をもって精一杯に生きていこうと。

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